casavouta日記

明治神宮

d0016633_23295823.jpg
あまりにブログを書かなさすぎて、脳が退化してしまったようなので少しずつまた書いてみようと思います。今花菖蒲が見頃という事で明治神宮に行ってきました。菖蒲というのはつくづく日本の花だなあという印象・・・日本画で描くのが一番似合いそう。しかしいつ行っても気持ちのよい場所です。それから一時パワースポットブームで5時間待ちのこともあったと言われた、清正の井戸を見る事ができました。パワースポット・・・というからには何かあるはずという強い期待を胸に井戸に近づいてみると・・・とにかく水がきれい。鏡をみているようで、吸い込まれてしまいそうで、ず〜っと見ていても飽きない感じでした。しかし「まだ写真撮ってんのか」みたいなおじさんの声が聞こえた気がして、(というか本当に私に言っていたのかは分からないけれど)後ろに人がズラーっと並んでいるという状況に弱いので落ち着きませんでした。といっても他の人よりはゆっくり見ていたかも。どっちにしてもパワースポットというからには皆様もう少し穏やかな気持ちで行った方がいいと思います。邪悪な心で行くと井戸の中にずずず〜っとひきこまれて「かんべんしちくり〜!」と、日本昔話みたいになりかねません。かくいう私も後で本殿で引いたおみくじには「他人が見ていようがいまいが神様は全てお見通しです」と書かれていました。あれ?何かやましい事でもあったかしら?
[PR]
# by casavouta | 2011-06-13 23:29 |

有り難いことと写真

 ありがとうという言葉はいい言葉だなあ。と相田みつお調で始まりましたが、ありがとうとは有り難い、つまり有るということが当たり前ではないから有り難いという意味、本当にいい言葉だと思う。
 写真はその瞬間を切り取る。つまり撮ったら最後同じ瞬間は二度と来ない。その写真のもつ性から逃れようと私はあまり記念写真を撮らず、風景を主に撮っていた。そういうものはあまり思い出というものを意識しないでいいと思っていたから。でも結局それから逃れられないということが最近になって思い知らされた。
 写っているものが今はない失われた風景である場合だけではなくて、たとえいまもあるものであっても、その風景を撮った時の気持ち、状況をありありとその写真から思い出してしまうからだ。そういう意味で結局写真は思い出から逃れられないのだ。もちろんその写真を見る人にはそこまでは伝わらない。写っているものが全てだから、情報がなければ写真を見る人にはどんな気持ちで撮ったかまでは知る由もない。そうだとしても、写真を撮るという行為は有り難いという時間の不可逆性から逃れられないということなのだ。
 人は幸せに慣れてしまうとそれが当たり前のように思ってしまうけれど、写真は今という瞬間こそ、かけがえのない有り難いものだということを教えてくれるメディアでもあるのだと思う。いつでも有り難いという気持ちを忘れないで生きていきたいなと思う。

d0016633_1495274.jpg

[PR]
# by casavouta | 2011-02-28 23:52 | 写真

歴史に残るって何? 続編

 昨日の続きです。ほとんど自分の頭をまとめようとするブログになってます。歴史に残る、残らないという視点で考えると、例えば現代美術などがいい例かなと思いました。現代美術は歴史に残るための美術なのではないかと思います。最近写真の流れなどを見ても、現代美術に近づいているのかなということを感じたりもします。
 しかし一方で昔と違って今はほとんどの人が表現ができる時代だから、名もない人という感覚は大分昔と違っています。例えば昔の人が自分のために書きためた備忘録や日記帳が他の人が見てもとても手のこんだ素晴らしいものであっても、ほとんど人目に触れる事がなかったけれど、いまはこうしてその気になればブログなどで多くの人に見てもらえる。これはやはり大きい事なのではと思います。しかし一方では言葉で伝えられない口承で伝えていく文化もある。それが存亡の危機にあっているという事・・・あ〜なんか頭の中がこんがらがってきています。
 何が言いたいかっていうと歴史に残らないものに目を向けてみたいという事です。歴史に残らない美術、歴史に残らない音楽、歴史に残らない写真、歴史に残らないお笑い・・・それには合わせ鏡のように歴史に残るものも見なければならないという事。あたまが更に混乱してきたので次回に続きます。(でももしかしたら続かないかも・・・)
[PR]
# by casavouta | 2011-01-28 12:30

縄文時代のひょうきんもの

 昨年は個人的に波の激しい一年でした。その上twitterの登場によって毎日が断片的に過ぎていったような感じです。最近いろいろ思う事あって、自分の祖先について考えたりしています。私自身祖父に会った事がないのですが、自分の気質の中にどう考えても不可解な部分などあったりして、遺伝みたいなことも考えていくうちに戦時中に内蒙古で亡くなった祖父のことを調べてみたくなったのでした。そうすると当然明治〜昭和の歴史を勉強しなければならないんだけど、もともと歴史が苦手なこともあってどこから手を付けていいのか分からなくなっています。そんな事を考えている矢先に養老孟司さんの子供向けの本を読んでいたら、ドキッとする文章にも出会いました。歴史というのは、なにか事件が起こった事だけ書かれている、本当は特に大きな事がおこらない事の方がほとんどなのに・・・といった内容でした。
 それで思い出したのが、私がたまに想像する縄文時代のひょうきん者です。何事も大きな事件の起きない、日々の日常の中で、名前も残らない人だけれど、村中を笑わせていたひょうきんものがきっといただろうということです。それは縄文時代だろうが、平安時代だろうが、江戸時代だろうがいたと思う。その人はすごく物まねがうまかったかもしれないし、踊りが絶妙だったかもしれないし、歌がうまかったかもしれない。そういう事を想像するときゅ〜んとしてしまう。
 歴史に残るものとのこらないもの。今その両方が、とても気になっています。
[PR]
# by casavouta | 2011-01-27 17:20

2011年カレンダー

今年もカレンダー作りました!今年撮った写真から選び構成しました。
よろしければぜひ。詳しくはこちらをご覧下さい。

d0016633_21594985.jpg

d0016633_2202188.jpg

B5判
[PR]
# by casavouta | 2010-11-27 22:00 | 写真

 本棚の整理をしていて、いつも本を処分するかどうか、迷ったり、売ってから後悔したりということを繰り返したりしていますが、最近やはり資料で仕事で使うとかいうことじゃなかったら、処分してしまえばいいのかなという気分になっています。
 私が昔落ち込んでいた時期、ある本を読んでいたら本当に乾いた土に水がしみ込むようにどんどん元気になっていった本がありました。その本を後日古本屋で見つけてとりあえず買っておいたけど、後になって見ても、何が書いてあるのか何がそんなに私をひきつけたのか分からない程忘れていて、結局そのままおいておくだけということになっています。
 もしかしたら読書って、その時、その時間の自分と伝える側内容の関係性の化学反応で読者に何かが起こる、その経験はライブやお話と変わらないのではないかという気がしてきました。
本は何度でも読めるから、読んでよかった経験をもう一度感じたかったり、またいつでも読めるからと思っているけれどそういうものでもないのかもしれないなという気がしてきました。
 本当に読書好きな人は、一冊の本で何度でもライブを経験できるのかもしれませんが・・・
[PR]
# by casavouta | 2010-11-04 00:17

ケオラ ビーマー

 久しぶりの更新です。ツイッターのおかげですっかりブログが書けなくなってしまったので、ほとぼりが冷めないうちに・・・
 今日は、初めて生でハワイの音楽を聴きました。ケオラ ビーマという人で、スラックキーギターというギターを弾いて歌う人。私は全然知らなかったのだけど、第一声でやられました。そして奥さんのフラダンスと歌がまた凄かった。今までフラダンスに対して持っている私のイメージ(常磐ハワイアンセンター)みたいなものと全然印象が違いました。踊りが生活の中に、生き方の中に多分染み付いている。踊る事は生きる事なのでしょう。大地に根を張っている人、本当に自然に囲まれて自然に畏敬を持って生きている人の踊りという印象でした。
 土地は音楽と結びつくということはもちろん当たり前のこととはいえ、今回程それを感じた事はなかった。そして土地のパワーが強い所にいる人の音楽だということを感じました。例えば吉祥寺に住んでいてもこんな踊りはできっこないのです。やっぱりそう考えると中央線はフォークが似合うのか・・・
 普段聴いているクラシック音楽は考えてみると対称的な音楽のようにも感じます。土地との結びつきというよりは、この世界と対称的な天上の世界を憧れるというか、観念的な美を追求しているような感じがします。
 そんな事を考えると音楽と土地、体との関係は興味深いです。いろんな音楽があるんですね。
[PR]
# by casavouta | 2010-10-10 01:11

写真の変化

 原美術館のウイリアム・エグルストンの展示を見てきました。エグルストンといえば写真の世界では知る人ぞ知る巨匠ですが、今回の展示ではその評価が分かれたようです。今までの代表作といえるダイトランスファーという独特の手法を用いたプリントがほとんど展示されず、新作が多かった事が、今までのエグルストンをよく知っている人にとっては残念に感じられたということもあったのかもしれません。新しい写真はドローイングも加わっていました。なぜ写真にドローイングをつけるのか、その是非も分かれたようです。正直私もドローイングはよくわからなかったのですが楽しい気持ちは伝わってきました。作風をどんどん変えて行くロバート・フランク然り、どのジャンルにも言えると思うけれど過去歴史に残る作品を撮った人は、その過去から自由に現在の自分を表現して行かなければという戦いにさらされているのかもしれません。いやそんなことを戦いともおもわずにのびのびと自分のその時したい表現をしているだけなのかもしれません。エグルストンの今回の展示はそんなふうにのびのびと楽しく今を表現しているように私には思えました。
 そんなことを考えながら自分の写真を見返していたら、なんか釈然としなかったある種の写真の原因はそのプリントのトーンかもしれないという事に気がつきました。トーン=作家性と短絡的には考えられないといつも思っているけれど、無意識に表れているトーンというものがあるかもしれない。一つ一つ検証して行く必要がありそうです。自分が変われば写真も変わっていく。それも自然に、ということをエグルストンから教わったような気がします。
[PR]
# by casavouta | 2010-08-15 11:04 | 写真

見ること 見えること

 久しぶりに近所に流れる千川上水という小さな川をじ〜っと見ていました。子供の頃よく遊んだ川です。しばらくじっとしていると、アメンボ、タニシ、鯉、草、花、川の流れ・・・いろんなものが見えてきた。子供の頃はよく見えていたものをずっと見ていなかったんだなあということに気がつきました。
 大学の時に読んだ哲学の本の中に確か「目は視覚の器官-障碍」という言葉がありました。その時の私は何かを見るという事は同時に他のものを見ない、他のものは見えないということでもある、という風に勝手に解釈して納得したりしたのだけれど、日頃私の身の回りのもので、どんな物事を見て、どんな物事を見ていないのだろうか。私に見えていない豊穣な世界はどれだけあるのだろうか。
 写真を撮るということは、それだけ「見る」という仕事である反面、写す、写るための技術がついてしまって、見えるものしか見ていないのではないか?写真は焦点をはっきりさせて絞って行くことだから、見ることをはっきりはさせるけれどそれは他の見えないことをより見ないようにしていくプロセスだったりもする。その取捨選択はこれでいいのだろうか?
 確かに写真を撮る事で発見があったりより見えないものが撮るうちに見えてくるということも事実。でもある程度数をこなすと見ることの中に、写す、写ることまで計算に入れてしまっている。それは純粋に見る事を邪魔してはいないだろうか?とそんな事を考えるにつけ、あの「目は視覚の器官-障碍」という言葉は大切にしたいなあとあらためて思ったのでした。(この写真は代々木公園)
d0016633_23204165.jpg

[PR]
# by casavouta | 2010-06-26 23:18 | 写真

本の匂い

 iPadの出現でついに出版の電子化も本格的になってきました。いやはやこんな時代が来るとは。きっと印刷業界は厳しくなってくるのでしょうね。寂しい限りです。
 子供の頃から本や特に雑誌というものに並々ならない気持ちを持っていたのは、やはりその中身もさることながら、重さ、質感、インクの匂いや紙の匂い全てを併せ持ったものだからこそ。
 読む本や雑誌の変遷は、紙の匂いの変遷でもありました。マンガ雑誌の匂い、教科書の匂い、ファッション雑誌の匂い、輸入雑誌の匂い。本の匂いを嗅ぐと過去に読んだ本の内容までよみがえってきて何とも言えない気分に浸るのが至福の時だったのに。どんどんこれから匂いのない世界になっていくのでしょう。アロマテラピーのように調合すればある程度は再現できるものと違って、印刷のその匂いは再現する事はこれからどんどん不可能になっていくでしょう。
 失われた昔の音の文化と同様に、こうして消えていく匂いの文化というものがある。その上昨今の普及されたインクジェットの匂いの味気なさ。匂いの画一化現象。ああやだやだ。匂いが消えていくという事はこれからの人の記憶にどう作用していくのだろう。電子本が主流になっていくにつれ、きっと人々の記憶の濃度や質は自ずと変わっていくのでしょう。
[PR]
# by casavouta | 2010-05-28 23:13 | 日々